見出し画像

1999年。ネットワーカーが活躍する社会が来ると信じて会社を創業してみた

高知県の山間部に小さな町梼原町があります。
今月、ゆすはら未来フェスというzoomイベントがあります。
学びのイベントで市民だけでなく生徒や学生がたくさん参加するとのことです。

梼原町では、一貫教育(Study Shift)を発表しており、そこ実現することは
ーーー
子供たちを一貫教育で
Agenda Shaper(自ら問いを立てられる人)、
Change Maker(自ら変化を起こせる人)
に導くこと
ーー
とのことです。

スクリーンショット 2020-11-01 17.37.55

今回のイベントでは、文部科学省の合田哲雄さんや経済産業省の浅野大介さんという教育行政のリーダーも特別対談したり、教育長や校長先生や現場の先生がプレゼンするのですが、外部からも様々な逸材が参加されてプレゼンするとのことです。

その中で私も
・自ら未来を切り拓いてきた大人たち
枠で講演を頼まれました。チラシにはプレゼンテーターたちの紹介として、こう書いてあります。
ーー
なぜその仕事を選んだのか?
どんな人生を歩んできたのか?
自分にとって教育・学びとは何なのか?
自分らしく生きる、ワクワクする大人たちが語ります。
ーー

そこで、今日のnoteは、参加される生徒・学生さんのため

「なぜ、33歳の1999年4月にネットマンという会社を創業したのか。」

を自叙伝的に書きたいと思います。

実はネットマンという会社名の由来は
Network-er Management
の略でNET-MAN
です。「ネットワークな人 経営」という意味ですね。

私はそれまで、ある大手SIerでシステムエンジニアとして働いていました。
創業から遡ること6年前。私が27歳のときマイクロソフトの「Windows 3.1」日本語版発売されました。翌年の28歳のときにCompaq Presario というパソコンを買った私は、毎晩遅くまでネットサーフィンを夢中で行っていました。(余談ですが、28800bpsのモデムで繋げてみていました。28K!今の光は30Mは出ますから1000分の1のスピードです)

夢中になった理由は、あるサイトが面白かったためです(gamelanといいました。ガメランですね)。このサイトに世界中の技術者が自分の作ったプログラムを投稿していたのです。世界の最新技術を知りたい私は、投稿されている作品をみまくっていたのです。その作品には必ず、作者のメアドが書いてありました。

私はこれはいい!とい見つけたプログラマーを毎晩3人くらい見つけては、彼らにメールをするのです。

メールといっても大したメールではありません。
It's cool site! I am japanese.
といった程度です。

当時Javaという技術に興味をもっていた私は、とくに数学のApplet(ブラウザーでグラフを表示して計算できるツール)を発表している人に、
「すごい技術を使っているね。これってどうやってるんだ?」
ってな具合でメールをするのです。だいたい10人メールすると2人は返信が帰ってきます。

1人は、「Hey Jap! I hate people who eat raw fish」と誹謗のメールがきます。(最初はショックでしたがだんだん慣れてスルー力が身につきます)
1人は、丁寧な返信がきてそれに返信する形で文通が始まります。要はメル友ですね。最初は固いやりとりも、次第に
「実は俺はインドネシア人で高校の物理学で賞をとって国費でアメリカの大学に留学中なんだ」
とか
「君、彼女いるの?俺の彼女同じ留学生の中国人なんだよね」って感じでとても仲が良くなっていきます。
そんなメル友が何人かいたので、私は楽しみながらどんどん新しい技術を身につけていきました。
(当時静岡の沼津市から東京まで新幹線通勤でしたので、家に着くのが毎晩24時。そこから何時間もネットサーフィンしたあとに朝6時30分には家を出発していました。体力があったし、相当夢中だったのでしょうね。)

そんな中、システム開発の仕事であるコンペがありました。競合はIBMとDECと記憶しています。そこで私はメル友たちから得た技術をつかって提案書を書き上げました

コンペは、ある大手印刷会社の案件で、全国にいる営業担当者に対して営業状況(どの製品がどれくらい売れているか)をタイムリーかつわかりやすく伝えるシステムの構築を1年半で実現するというもの。
受注の明細データ量は3億行。それを検索・集計して3秒以内に事業部別商品カテゴリ別などでグラフや表で伝えるシステムです。

私はサーバーからクエリーでデータをとってきて、当時営業担当者に配布されていたwindows3.1に入っていたパソコンのブラウザーNetscapeに表示するシステムを考案しました。Java(Applet)を使ってブラウザーにグラフや表を表示するというものです。もちろんサーバーは高速のもの、データベースはoracleを採用しました。

競合他社は、汎用コンピューターとダム端末を使った仕組みや、ノーツというクライアントソフトをパソコンにインストールするものなどでした。
私の提案は、営業マンたちの端末にはまったく投資はいらないという画期的なものでした。実は、メル友から教えてもらったJavaという技術を知っていたからできたものです。

コンペの数日後、営業さんから喜びの電話が掛かってきました「永谷!勝ったぞ!」ハードとソフトで3億円の案件でした。
(余談ですが、サーバーにDECを提案したのには、相当びっくりされました。だって勝った競合のハードを担ぐのですから。だってベンチマークしたら、SUNやCompaqよりアルファチップを搭載したDECが一番早かったので。ベンチマークに協力してくれたベンダーさんごめんなさい。八王子のDECの工場に空輸された8000万円のサーバーを見に行った時は相当歓迎を受けました)

さて
ここからが大変です。なにせ当時、Javaができる技術者などいないのです。なぜならまだ日本に上陸する前のもので、世界でも最先端の人しか知らない技術なのですから。

よって素晴らしい提案をしてコンペに勝ったはいいけど、作る人がいないのです。

上司は言いました。「永谷。どうせやるんだろ。ぜったいバレるなよ」と。

当時の私が働いていた会社は業界大手のSIerです。よって仕事は社内か子会社や取引実績のある有力ソフト会社にしか発注してはいけないというルールがあるのです。

よって私がやるしかありません。どうやってやったかというと。。

もうお分かりですよね。そうです。メル友に発注したのです。

個人のプログラマにメールで設計書を送信して、メールでプログラムを納品してもらう形です。検査をしてバグを見つけたらそれを指示して治してもらうという方法です。
今では当たり前のフリーランス外国人を使ったオフショア開発ですね。当時1995年では、まだ誰もやっていなかった方法だと思います。

いくら使ったかというと、ボーナスが1回飛んだという記憶がありますので50万円くらいだと思います。もちろんポケットマネーです。

無事開発は終了し、3億行のデータから3秒で情報を持ってくるという営業情報システムは安定稼働させることができました。
(もちろんハードやメモリー、Oracle8の最新技術なども駆使しました)

当時、プログラム技術者が100万人足りないといったニュースが新聞を飾っていました。

私はこの一件である確信を持ちました。

「プログラマは足りなくない。むしろ余ってる。欠けているのは「子会社にしか仕事を出してはいけない。仕事は企業とやるもので個人に発注するなんてありえない」といった古い働き方の概念だ。この概念を変えれば、スペシャリストである個人も社会の中でイキイキと活躍できる

私はこの個人のプロフェッショナルの方々をネットワーカーと呼びました。
ネットワークな人。ネットがある時代の新しい価値観をもった人です。
だから、Network-erなんです。Net-workerではないところがミソです。

そしてこのネットワーカーを活かす経営をする会社
Network-er Management Company =NETMAN
が創発されました。

社会の仕事がすべてネットワーカー型になるだろうからそれをマネジメントする会社が必要なはずであると考えたのです。まずは、自分の得意なソフトウェア開発分野でイノベーションを起こそう。と1999年ネットマンを設立しました。

画像2

わずか半年で8000人の技術者を登録してもらうことに成功したビジネスモデルは、当時の有力ネット会社UUNETさんの雑誌の日本のベンチャー評価雑誌で上位企業に位置していました。(その中に堀江さんのオンザエッヂもありました)
また日経BPさんに取材されて記事になったこともありました。
-->低価格化の切り札 人材のユーティリティー化(ネットマン)

ところが、わずか数年でこのビジネスモデルは終わることになります。
(このあたりの失敗経験は、また別の機会に書きたいと思います。クラウドワークスさんが2011年創業なんで、12年くらい早かったですかね)

いずれにしろ、ネットマンの創業理念は、「これからのネットワーク時代、一人一人がイキイキと働くという社会の実現」を目指したものだったのです。今はそれが教育イノベーションを通じてこのような社会を実現するというテーマに軸が立っているということですね。

今日も最後まで読んでくださりありがとうございます。

みんなにも読んでほしいですか?

オススメした記事はフォロワーのタイムラインに表示されます!